渡邊・清水法律事務所

第7回 仕事の流儀(その2)― Throw Water out of Your Bucket

 仕事の流儀、その2回目です。今回は、「俯瞰」がテーマです。

 電車に乗っていても、居酒屋で飲んでいても、残念なことに、隣から聞こえてくるおっさん、おばさん達の会話の話題の多くは他人の悪口ですが、その殆どは「あの人は他人が見えていない、自分を客観的に見ることができない」ということに起因しているように思います。そういう悪口を言っている人たちの殆ども同じように自分を客観的に見ていないようにも思いますが、それはそれとして、物事を客観的に見る、ということは、人間にとって非常に難しいことのように思います。その文脈で、物事を俯瞰してみること、言い換えると、一歩下がって全体を見渡してみることというのも、同じように非常に難しいことのように思います。恐らく物事を俯瞰して見ることのできる人は、物事も、そして自分自身も客観的に見る能力を備えているのではないかと感じます。

 では「物事を俯瞰する」とはどういうことなのでしょうか。どうしたら「俯瞰する力」は身につくのでしょうか。

 若い頃、「観の目つよく、見の目よはく、遠きところを近く見、近きところを遠く見る事、兵法の専なり」という一節に出会いました。ご存じの方も多いでしょうね。宮本武蔵の「五輪書」です。宮本武蔵は、巌流島の決闘などの話から、小賢しいヤツ、という印象を持たれている方も多いと思います。ぼくもそうでした。しかし五輪書を読み、彼の書画を観て、彼に対する見方が変わりました。真っ当に、謙虚に己の人生と剣術に向き合った人物のように思えます。

 それはそれとして、この一節、現代のビジネスにも応用可、というような解説をよく目にしますが、応用しろと言われたって、結局何を言っているのか分かりませんよね。恐らく「観の眼」は森を見ること、「見の眼」は木を見ることと言い換えることができるように思えますが、宮本武蔵、哲学的すぎて難解です。

 私なりに長年この言葉と向き合ってきて、現在の私は、この一節のポイントは、「観の眼」とはどんな眼なのか、どうしたら「観の眼」を持つことができるのか、ということに収斂するのではないかと思っています。「観の眼」とは何か。私もこれには随分悩みましたし、考えました。いや、今も悩んでいるし、考えています。現時点で想到した私の答えは、”Throw Water out of Your Bucket”、つまり自分のバケツから水を棄てる、ということです。

 少しご説明します。

 誰でもその頭の中は、自分の立場に基づいた主張、思考、理屈、あるいは言い訳、何でも良いですが、とにかく、自分に都合の良いものの捉え方で一杯になっています。つまり自分の頭の中は、基本は自分の水で一杯になっているといって良いと思います。その状態で、自分と見解の違う人と議論しなければいけない状況が発生したとき、あるいは自分の考えを人に説明して理解を得なければならない場面に遭遇したとき、より広く捉えれば、自分の立場と異なる立場の人の考え方を咀嚼し、理解し、比較し、評価して、その人を説得する必要性が発生したときに人はどうするのか、それにより物事を「観の眼」を以て捉えることができる人とできない人の違いが出るような気がします。

 どういうことかというと、物事を「観の眼」を以て捉えることのできる人とは、他人の考え方に触れたときに、取り敢えず自分の頭の中の水を一回全部棄ててみて、他人の水を一杯に入れてみることのできる人ではないかと思うのです。何故かというと、そのことによって相手の立場が虚心坦懐に理解できるようになる、そしてその結果、自分の考え方との公平な比較ができるようにもなり、自分の考え方の欠点も認識できるようになる、それがすなわち、自分を客観的に見るということですし、その結果、自分が物事を見る視点が一段遠くなるように思います。それがすなわち「観の眼」を持つということであり、それが物事を「俯瞰する」ということだと思うのです。

 逆のことを考えてみてください。自分の立場と違った考え方、対立する主張に触れたときに、その立場、主張の意味を正確に把握できなければ、その主張が自分の立場とどこに共通点があるのか、何が相違点なのかを理解することもできませんし、的確な反論を組み立てることもできません。また他人の立場の強さ、弱さを正確に認識しなければ、どこに対してどのように同意または反論すべきなのかも見えてきません。自分の立場に固執しているだけで、相手の立場を理解できなければ、自分がどこに立っているのか、相手はどこにいるのかも全く理解できません。

 要するに一旦他人の水で自分のアタマを一杯にして初めて自分の立ち位置が明確になり、相手との相違点も明確になる、それが物事を俯瞰するということであり、物事を「観の眼」でみる、ということではないか、そんな気がします。

 しかし、実はこれは非常に難しい作業です。冒頭のおっさん、おばさんの他人への悪口の話ではないのですが、自分のアタマを他人の水で一杯にできることができる人は、程度問題ではあるものの、どちらかというとあまり多くはないように思います。人は皆自分のことを客観的に物事を捉えることのできる人間だと思っています。しかし現実はそうではない。自分自身も到底できているとは思いません。ただ、これまで30数年間弁護士をやってきた経験からすると、一緒にチームを組んだ弁護士にせよ、相手方の代理人にせよ、「一旦相手方の立場に立って考える」ことのできる弁護士や裁判官はおしなべて非常に優秀だし、非常に手強い。何故かというと、そのことにより当事者双方の主張を客観的に整理できるようになると共に、自己の立論の欠点をも発見できるようになるからです。(当然のことですが、当事者双方の主張を客観的に整理するという作業は、裁判官のみならず弁護士にも不可欠ですし、その能力は仕事をする上で非常に重要です。)

 そしてこのことは、他人との議論、という局面だけではなく、一件複雑怪奇に見える法体系や論点、ひいては社会構造の整理という観点からも非常に有益だと思います。新しい議論、新しい立場に触れるたびに、それまで構築した自分のアタマの中の議論を一旦棄ててみる、そのことによって物事の別の側面が見えてくる、そういう経験は無いですか。

 因みに、自分の話で恐縮ですが、私は弁護士になって2年目の頃、法律専門雑誌に書いた論文の原稿を尊敬する先輩弁護士に読んでもらったときに「うん。視点が遠い。良い論文だね。」と褒めてもらったことが、その後の弁護士生活を支える原動力の一つになっています。自分が褒められたことも嬉しかったのですが、その先輩(俯瞰能力の化け物のような人でした)がそのような視点を持って論文を読んでいることを確認できたことも嬉しかった点の一つでした。

 というわけで、仕事の流儀の2回目でした。

 「Professional」とは、「物事を俯瞰できる人」、であり、「俯瞰する能力」とは「Capability of Throwing Water out of Your Bucket」ということになります。

                                                                                                               

 2022/12/12

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