渡邊・清水法律事務所

第4回 弁護士にとって「正義」とは

 弁護士法という法律があります。

 弁護士資格の根拠法令であり、弁護士の権利と義務を定める法律です。いわば我々の存在の礎となる法律ですが、その第1条第1項はこのように定めています。

 「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」 崇高で美しい規定ですが、同時に抽象的で難しい規定です。しかし、法にこのように定められている以上、我々弁護士は社会正義の実現を使命としなければなりません。では我々が実現すべき社会正義とは何なのか、より広く、弁護士にとって正義とは何か、というのが今回のテーマです。

 因みに日本国語辞典には「社会正義」とは、「世間一般の通念から考えて正しい道理。法の下の平等、同一労働に対する等しい報酬など。」とあります。これはこれで確かに、と思える解説ですが、考えてみるとこの定義は「法が達成すべき目的」そのものです。法律家である以上、我々弁護士が法の目的(我々はそれを「立法趣旨」ということもあります)の実現を目指すのは当然の義務ですので、弁護士法第1条の条文はそのことを言っているだけとも読めます。逆に言うと、この条文が求めているのは、そのような「社会正義」の実現のみであり、「正義」を実現するかどうかには触れていないとの考え方もあるかもしれません。

 ここでは「社会正義」を一旦離れ、「正義」について考えてみたいと思います。弁護士にとって「正義」とはなにか、という、より抽象的なテーマです。

 私がこのようなことを考えるようになったのは、司法修習終了後入所した事務所(森綜合法律事務所)で司法修習生の訪問を受け、彼らと様々な議論をしたこともきっかけのひとつになっています。私はもともと価値相対論者です。大学の教養時代にマックス・ウェーバー、法学部に進学してからラードブルッフを読んで、価値相対主義に傾倒しました。ラードブルッフの法哲学は、法の理念は正義としつつ、その正義については異なる立場から異なる回答が与えられて然るべきであり、その一つを絶対的に正しいとすることはできない、というものです。

 話を戻しますが、入所後の事務所で行っていた司法修習生の事務所訪問、それは今のような就職のための面接訪問ではなく、面白そうな事務所に修習生が大勢で押しかけてきて、旨い飯と酒を奢ってもらってひたすら飲み食いするという、修習生にとっては様々な意味で非常に美味しい、その相手をさせられる事務所の若手弁護士にとっては苦痛でしかないイベントでした。因みに、何でそんなことをやっていたのかというと、それは訪問に来た修習生に、ラーメン二郎にとってのジロリアンたる存在、つまり事務所のファンになってもらって、修習生仲間に事務所の宣伝をしてもらうという目的があったからです。それでも、年1回、2回ならまだ良いのですが、多い時期には、週3回、4回とひたすら毎晩相手をさせられることになり、心身共に疲弊したものです。

 この事務所訪問、就職面接でなかったため、実に様々な思考・思想の修習生がやってきました。中には、企業法務事務所に所属する我々の業務を真っ向から否定しようとする者も結構な割合でいました。無礼な修習生も数多くいましたが、実は考えさせられることも多く、翻って自分の仕事を客観的に振り返る良い機会にもなりました。

 そういった議論の中では時々、「あなたたちの仕事は、社会的弱者である一般市民を更に窮地に追い込むではないか。結果として弱者をないがしろにしているのではないか」という質問を受けました。そういった質問をされたとき、我々はよくこう答えていました。「オレたちは確かに個人を代理する事件は殆ど受任していない。だがオレたちは倒産した会社の破産申立もする。管財人にもなる。その倒産手続の趨勢には、そこで働く数万人の従業員、そしてその家族の生活がかかっている。オレたちはその従業員のためにも闘っている。その従業員とその家族はキミの言う一般市民ではないのか。またその倒産会社は、理不尽に債務の弁済を要求し、会社の余力を奪い取ろうとする取引先との関係では社会的弱者ではないのか。」

 我々が言いたかったのは、依頼者、ひいてはこの国の人々に一般市民だの社会的弱者などという階級や地位があるわけでもなく、誰が正義なのか、どこに正義があるのか、というのは畢竟相対的な問題に過ぎないのではないか、ということでした。

 私は現在も、恐らく価値相対論を拠り所として仕事をしているのだと思います。とはいうものの、日々の業務にあたり、価値相対論に従うとこの案件はどうなるのか、などということを考えているわけではありません。案件処理にあたり日々気をつけていることは、

  • 当事者間の善悪や利害状況を固定観念や過去の経験に依拠して判断しないこと
  • 利益状況の重層性を常に意識すること、

のふたつです。

 物事は所与の価値観にしたがって判断すると途端に単純になります。その最たるものが、先ほどご紹介した、修習生との議論で出てきた「一般市民vs大企業」という図式です。労働者対ブルジョアジーという対立構造というフィルターを通して利害状況を判断すれば、そこには、社会的弱者たる一般市民と、彼らを搾取する資本家、という極めて単純な図式が出来上がりますが、そのような価値判断のみに基づいて業務を行ったところで、依頼者の利益が全く実現できないことは誰にでも想像できます。これはひどく極端な例ですが、所与の価値観とはかくの如く危険であると私は思っています。当事者の利害状況は案件毎に千差万別であり、虚心坦懐に案件を観ることが絶対に必要です。固定概念は案件処理には無用の産物であり、その意味で、過去の経験は頼りになりません。「虚心坦懐に案件を観る」、価値相対論は、そのために私が依って立っている考え方なのかもしれません。

 また、二点目の利害状況の重層性、これを端的に描ききったのが、石ノ森章太郎の「仮面ライダー」だと思います。(因みに彼の思想は、「サイボーグ009」の根底にも流れていますね。)単純化して申し上げると、それは「善悪の相対性」ですね。つまり、人と人との関係には、その表層を一瞥だけでは決して見えない深層部分があるということです。これは個人においても企業においても同じであり、当事者間の複雑怪奇な関係性、そこから生じる利害状況は、固定化された価値観のフィルターを通して観ている限り決して姿を現しません。

 ただ、価値相対論を貫くのは、時として非常に難しいことがあります。

 価値相対論のレトリックの一つに、「自分が価値相対論者であることについては絶対的」というものがありますが、そういう面倒なことはともかくとして、法における正義は立場によって異なる、という価値相対論は、至極単純な「正義感」に打ち勝てないこともあります。このテーマは別の機会に再度書いてみたいと思いますが、特に刑事弁護の世界では、絶対的正義と相対的正義の相克が生じることが非常に多いように感じています。(分かりやすい命題を挙げると「麻原彰晃の弁護をすることは正義に反しないのか」というものがあります。)

 この点についてはいずれまた。

2022/7/29

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