渡邊・清水法律事務所

第25回 海外出張での事件あれこれ

 前回のテーマは、いわゆる「国際弁護士」の仕事についてでした。今回はそのついでに、いわゆる「国際弁護士」であるぼくが、これまで行ってきた海外出張で巻き込まれたいろいろな事件を、順不同、思いつくままにあれこれ書いてみます。

ま、まさしく雑談です。お時間のある時にどうぞ。

1.JFKでアタッシュケースを盗まれた事件

 弁護士というのは基本的に紙が大好きな人種で、なかなかペーパーレス化ができないのですが、さすがに我々も時代の波には逆らえず、会議でもラップトップだのタブレットだのを使うことが増えました。インターネットでメールが使えるようになったのが、ぼくがアメリカにいた1990年代の前半ですし、その後10年ほどは、まだPCの性能も今ほど上がっておらず、膨大な量のデータを格納することもできませんでしたので、本格的にPCに格納したデータだけで仕事ができるようになったのは、せいぜいここ20年程度のことです。

 データで仕事するようになって劇的に変わったのが出張の際のカバンの厚さと重さです。いまでこそ海外出張もラップトップ一台で行けますが、以前は出張と言えば、膨大な資料やら契約書のドラフトやらを全部アタッシュケースだのフライトケースだの(場合によると、巨大なキャリーケースということもありました)に詰め込んで持ち歩く必要がありました。

 そしてぼくは、人生最初の海外出張(実はそれが人生最初の海外渡航でもありました。仕事を始めるまでパスポートを持っていませんでした)で、トランジットで降りたニューヨークのJFK空港で、そのアタッシュケ―スを盗まれてしまったのです。なんといっても弁護士になりたての頃の初めての海外出張で、英語も喋れず、緊張しまくってトランジットのためにJFKのエアラインのカウンターに立ったのは良いのですが、アタッシュケースを自分の股の間において両脚で挟むということをせず(実はこれ鉄則)、身体の脇に置いてやり取りをしていた、その数分の間に盗まれてしまったのです。幸いなことにパスポートも財布も、全部チケットカウンターの手許に置いていたので、出張を続けることはできたのですが、ファイルは総て無くなってしまいました。ただ、同行してくれたクライアントの皆様が必要な資料は総てお持ちになっていたので、これもラッキーなことに仕事自体に影響は出ませんでした。

 この話は後日談があり、帰国後、エアラインから連絡があり、なんと盗まれたアタッシュケースが見つかったというのです。ターミナルビルの出口付近に捨てられていたということで、警備員が見つけて持ってきた、と。費用は掛かりましたが、そのアタッシュケースは日本まで送ってもらい、以後40年近く、何度も修理しながらいまだに使っています。ブランド物ではありませんが、しっかりした皮のアタッシュケースで、今や塗装は剥げ、皮革もボロボロになっていますが、それはそれでいい味が出ていて、バーなどにこの鞄を下げていくと、時々「インテリアとして店に置きたいので譲ってくれませんか」などと言われます。40年間連れ添った相棒なので、当然お断りしています。

 更に余談があります。案件ファイルがなくなってしまったことはもちろんショックだったのですが、それ以上に悲しかったのは、買ったばかりの篠山紀信による樋口可南子写真集も一緒になくなっていたことです。アメリカ人には樋口可南子なんてどうでもよいので、たちどころにゴミ箱行きだったんだろうな、と考えると今でも悔しいです。

2.部屋中ファックス用感熱紙で埋め尽くされた事件

 インターネットでメールが使えるようになったのは90年代前半だとお書きしましたが、当時はまだインターネットが商用開放されておらず、「パソコン通信」なるサービスを利用してPC間でダイレクトのやり取りをすることだけができた時代で、その「パソコン通信」を提供するプロバイダーと言えばニフティサーブくらい、パブリックドメインとして使うことができたブラウザと言えばMOSAIC程度で、しかもまだLAN回線等が整備される前のことですので、接続方法も電話回線へのダイヤルアップでした。海外出張の際にホテルで日本とメールのやり取りなどしようものなら、あっという間に国際通話料金がホテルの宿泊費より高額になってしまうという時代でした。

 そんな時代でしたので、日本とのやり取りは基本電話、日本から資料を送ってもらう時はファックスに頼るしかありませんでした。気の利いたホテルの部屋にはファックスマシンが置かれており、わざわざフロントまでいかなくとも、部屋でファックスの送受信ができるようになっていました。今のホテルの各部屋でWiFiに接続するのと同じ感覚ですね。出張ではそういうホテルに宿泊するのが必須でした。

 ライセンス契約か何かの契約交渉でニューヨークに行き、ファックスマシンの置かれているマンハッタンのホテルに宿泊しているときに、夜中(日本の昼間)、明日までに契約書の最新版をファックスで送ってほしい、と秘書に指示をして就寝したのは良いのですが、朝起きてみたら、数百ページのファックスが送られてきていて、部屋中ファックス用紙で埋め尽くされていた、ということがありました。当時のファックス用紙は、今のような普通紙ではなく、ロールになっている感熱紙ですので、全く切れ目がありません。何十メートルになろうかという感熱紙が、床の上でグルグルととぐろを巻いていて、それこそ足の踏み場もありませんでした。仰天しました。同時に心から後悔しました。

 どうやって読んだのか、読み終わったらどうしたのか、今となっては全く記憶がありません。

3.飛行機で有名人と遭遇した事件

 留学から帰ってきてから30年以上になりますが、平均すると少なくとも年5回以上は海外出張をしてきたように思います。

 これだけ飛行機に乗っていると、いろいろな人に遭遇します。政治家にも何人も会いましたし(彼らは基本、極めて横柄でCAの言うことを全く聞きませんし、席の周りを乱雑に汚します)、芸能人と言われている人たちにも相当お目にかかりました。成田を離陸してから目的地に着くまでの12時間強で7回着替えた歌姫もおられました。

 そんな人たちの中で、ぼくが最も印象深かったのが、亡くなった十八代勘三郎でした。

 日本のエアラインは、なぜだか全くわかりませんが、芸能人だの有名人だのと呼ばれる人たちに滅法弱いです。グランドスタッフもCAも、彼らにやたら媚を売りますし、サービスも別扱いです。例えば食事が和食と洋食の二種類ある場合、通常は座席順に訊いていくのですが、有名人が搭乗している場合は、まず彼らの希望を先に取るのです。ぼくは(まあ平たく言えば嫉妬なのでしょうが)これが嫌いで、いつも苦々しく思っていました。そして彼らのほとんどは、そういう特別扱いを当たり前のように受けています。

 勘三郎丈は、モントリオールからの帰国便で、たまたまぼくの斜め前の席に奥さんと一緒に座っていたのですが、例によってCAが真っ先に希望を訊きに行った際、「特別扱いしないでください。皆さんと同じように順番に希望を取りに来てください。」とはっきり仰っていました。

 カッコよかったですね。こりゃあ女性にもてるのも当然だ、と思ったものです。

4.クリントン元大統領と同じ部屋に泊まった事件

 ビル・クリントン元大統領が泊まった部屋に泊まったことがあります(同じ夜に同室になったのではありません)。

 LAで勃発した案件の関係で、都合13回、LAに行ったことがあります。あまりに頻繁に行ったので、現地で宿泊するのがばかばかしくなり、途中から日帰りで行くようになりました。朝のフライトで離日し、西海岸時間の当日の朝に現地に着いてそのまま夕方まで会議をし、その夜のフライトで帰国する、というスケジュールです。現地ゼロ泊、出発した翌日の夕方には帰国できます。現地で寝ないので時差ボケにもなりません。最後の頃は、京都に日帰り出張するのと全く同じ感覚になりました。帰国してT-CATから事務所までタクシーに乗ったところ、「お客さんどこに出張だったの?」と訊かれ、「LAですよ。」と答えたところ、「荷物それだけ?さすが旅慣れた人は違うねえ。」と目を真ん丸にされたこともありました(先ほどお話したアタッシュケース一つだけでしたから)。

 現地で宿泊する際には、海外線のサンタモニカの同じホテルを定宿にしていたのですが(サンタモニカの夕陽は最高でした。夕焼けを観ながら海岸線で飲むマルガリータがまた格別でした)、それだけの頻度で利用すると、いつからかフロントマンが顔を覚えてくれて、敷地内のバンガロー(日本でいう「離れ」ですね)にアップグレードしてくれるようになりました。一軒家なのでベッドルームが何部屋もあって、スイートルームなんぞより更に広いし、プールはあるしキッチンはあるしで、そりゃあ観光で利用すれば天国なのでしょうが、こちらは仕事、プールに浸かる暇も、庭園を散策する暇も、料理を作る暇もありません。基本早朝にホテルを出て、深夜に帰ってくるだけです。しかもやたら広い分、却って寂しい。

 そんな話を現地のアメリカ人の弁護士にしたところ、なんだかリアクションがおかしい。なんだ?と思っていたら「ハジメ、その部屋、誰が泊まったか知ってるのか?」と言われました。なんでも、クリントン元大統領がモニカ・ルインスキーと例の有名なスキャンダルを起こした際、いつも一緒に泊まっていたのがこのバンガローだったんだそうです(しかもお忍びだったにもかかわらず、ホテルの中も外もSPで溢れていたとか。全然お忍びじゃないですね)。

 ニヤニヤしながら「おまえ、まさか」という目で見られました。いい迷惑でした。

 この話にも余談がありまして、当時の事務所のホームページに、「ワタナベモニカ」というキーワードでアクセスする人がやたら増えた時期があり、IT担当の事務所の弁護士から、「せんせー、やっぱりサンタモニカで悪いことしてたんじゃ・・・・」と更に疑いをかけられました。調べてみると、当時そのキーワードの名前のそっち系の女優がいたことがわかりました。そんなキーワードで、なんで法律事務所のホームページにアクセスできたのか、いまだに全く分かりませんが。

5.法廷通訳をやる羽目になった事件

 例えば日本のクライアントがアメリカの法廷で証言する際には、通訳に入ってもらうことが必要となります。日本の裁判所では、法廷通訳が必要になった場合は裁判所に申請を出し、裁判所が持っているリストの中から通訳が指定されるのですが、アメリカにはこのようなシステムはなく、通訳は、通訳を必要としている当事者が自ら選び、同行させる必要があります。

 我々が現地の法廷通訳を選んだ案件で(テキサス州ヒューストンの裁判所でした)、口頭弁論手続が進んで日本人の証人が証言する時間となり、傍聴席に座って出番を待っていた通訳を手招きしたところ、なんとその通訳が「手招きするとはなんと失礼な」と怒ってしまい、宥めようとしたのですが怒りが収まらず、そのまま帰ってしまったことがありました。

 これは困りました。証人である日本人も、その証言のためにわざわざ日本から来てもらっているので、では別の日にリスケしましょう、ということもできず、どうしようかと思っていたところ、一緒に代理人になっていたアメリカ人の弁護士が、裁判官に「我々にはあんな通訳なんかより英語が上手い日本人の弁護士がいるので、彼に通訳をやってもらう」などと勝手に直談判し、そう言われれば裁判官も「じゃあ何も問題ない」ということになって、ぼくが法廷通訳をさせられる羽目になりました。一応代理人として選任されているので、手続的にはどうなのかと思ったのですが(通訳の公正性は保てるのかという点ですね)、そこはアメリカ、誰も文句を言わなければ、多少のことには目をつぶってしまいます。“OK. Mr. Watanabe, good luck.” ということになり、いったい自分はなぜこんなことをせにゃならんのだろう、と思いつつ何とか通訳をこなしました。更に言うと、通常はチェッカーと言って、ひとりの通訳が正確に訳しているのかをチェックする人間が必要なのですが、その件では相手方がチェッカーは要らない、と言っていたので、まさに通訳はぼくだけで、本当に大変でした。

 ご経験のある方は少ないとは思いますが、同時通訳って本当に難しいのです。もっと英語を勉強しておけばよかった、と心から後悔しました(結局勉強していませんが)。

6.ワイキキのホテルに一週間缶詰めになった事件

 アメリカの裁判には、デポジション(Deposition)という手続があります。証拠開示(Discovery)の一環で、口頭弁論(Hearing)が始まる前に、証人となるべき人間の証言内容を予め録取しておく、その内容を基に各当事者が主張を準備する、という手続なのですが、裁判所の庁舎内で行う必要はなく、アメリカ国家権力の及ぶ領土内であれば、法律事務所の会議室でも、ホテルでも、当事者が合意した場所であればどこでも行えます(これもいかにもアメリカっぽいですね)。

 原告と被告、どちらの代理人もアメリカ人弁護士がついたとある案件で、彼らはハワイをデポジションの場所に選びました。両当事者が証人として呼ぼうとしている人が全部で7、8人いたでしょうか。アメリカ人と日本人が半々程度だったので、両方の便宜を考えて真ん中のハワイ、というのがアメリカ人弁護士同士の協議で決まり、証人候補者全員の証言の録取がそのワイキキで行われることになったのですが、その場所は法律事務所でも裁判所でもなく、ワイキキビーチの誰でも知っている超高級有名ホテルの会議室でした。しかも彼ら、家族も連れて宿泊していたのです。なんとまあ露骨な、まじめに仕事しろや、とそれこそ超真面目な日本人弁護士のワタクシ、随分憤慨したものです(ちなみに、その件では、関係している日本人弁護士はぼくだけでした)。

 いずれにしても、結果的に我々は、ホテルの会議室に朝から晩まで完全に缶詰にされ、水着だのアロハだのを着て浮かれた宿泊客が行き来する廊下を、スーツを着てネクタイを締めて会議室と部屋との間を往復するだけの一週間を過ごすことになりました。切なかったですねえ。ハワイには何度か行きましたが、海にもプールにも一度も入らなかったのはこの時だけです。

 基本、ぼくの出張はどこでもこんな感じで、シンガポールに行っても香港に行っても、空港とホテルしか行ったことがない、という出張ばかりなのですが、この時は流石にめげました。唯一の救いは、最終日のディナーがそのホテルのメインレストラン(超有名、超高い、超美味しい、超お洒落)で、腹一杯ステーキとシーフードを食べ、心ゆくまで好きなカベルネを飲むことができたことでした。

7.成田空港のチェックインカウンターで出国を止められた事件

 アメリカの独禁法(反トラスト法「Anti trust laws」と総称されます)違反事件では、会社が違法行為に関与したということになると、違反行為を実行した会社従業員や役員も同じように有罪とされ、現地の刑務所に収監されることが殆どです。とある案件でそういう日本の会社役員を代理して、アメリカの司法省(Department of Justice)と交渉をしていたのですが、司法省との交渉のために午前の便で成田から出国することになり、エアラインのチェックインカウンターに立ってグランドスタッフにパスポートを見せたところ、彼女が一瞬、えっという表情をして奥に引っ込みました。なんだなんだ、と思っていると、今度は別のスタッフが出てきて、「ワタナベさま、今事務所の方からお電話があり、アメリカの法律事務所の弁護士さんが、ワタナベさまを絶対に出国させないように、と仰っているそうです。」というので、なんだとー、というわけで、慌てて事務所に電話したところ、「ハリス先生(一緒に案件を担当していたシカゴの弁護士)から電話があって、ハジメがいまアメリカに入国しようとすると、入国審査に引っかかって逮捕される可能性があるので、出国させてはいけない、と仰っています。」と言います。半信半疑のまま事務所に戻ると、彼からファックスが入っていて(当時はまだファックスでした)、その通りのことが書いてあります。我々の依頼者であった会社役員は、司法省から違法行為に関与した疑いをかけられており、アメリカに入国しようとした時点で身柄を拘束されることが確実でした。そこで代理人であるぼくもまた、入国できずに身柄拘束される危険がある、というのです。まさかそんな、と思いながら返信のファックスを入れたところ、すぐにその返信が来ました。「もちろん冗談だ。だが、ボストン(その事件の裁判所はボストンの連邦裁判所でした)の裁判所がブリザードで閉鎖されたので、今アメリカに来ても完全に無駄足だ。だが休暇が欲しいならいつでも待ってるぞ。まあ東海岸は一週間は何も動かないだろうから、たっぷり休めるぞ。みんなであのステーキ屋に行こうじゃないか。」という内容のファックスでした。

 いつもそんな感じの冗談が好きな人でした。懐かしいです。彼も既に鬼籍に入ってしまいました。

 その日の夜は、シカゴでステーキを食べる代わりに、日本で鉄板焼きを腹一杯食べ、しこたま飲んで、重い荷物をまた持って家に帰りました。

8.機長と隣同士の席になった事件

 ニューヨークまでの便で機長と隣同士の席になったことがありました。飛行機も可能な限り往復とも乗客を乗せて飛ばすらしいのですが、ダイヤの関係でどうしても回送便が出てしまうらしく、そういう回送便を日本まで飛ばしてくるために、パイロットが現地までいかなければならないということがあるらしいのです。この時の隣の席の機長さんは、ニューヨークのJFKから、成田だったか羽田だったか、とにかくそういった回送便を日本まで飛ばすために乗客としてぼくの隣に座ったのでした。

 ぼくは小学生の頃パイロットになりたかったほど飛行機が好きです。いろいろ興味深い話が沢山でき、パイロットが持っているフライトマップなども見せてもらって、非常に愉しかったのですが、その中で一番印象に残っているのが、国際線のパイロットの平均寿命はフライトを辞めて退職したあとせいぜい5年くらいだ、という話でした。なんでも時差で内臓がやられてしまうとのことで、大変な仕事なんだなあ、と思ったことをよく覚えています。

 しかもその出張で、マンハッタンのホテルに泊まっているとき、ぼくの心臓が突然止まってしまいました。寝ているときになんだか心臓の動きがおかしい、と思ったら、突然暫くの間鼓動が泊まり、まずい、オレ死ぬ、と思ったらまた動き出しました。そんなことが何回か続き、いつのまにか寝てしまいましたが、年間の海外出張が数年にわたり10回を超えていた時期で、やっぱりあの機長さんの言った通りなんだなあ、時差は怖いなあ、と痛感しました。

 その後出張の回数が減ると共に、心臓が怪しい動きをすることもなくなりましたが、ぼくの寿命は結構短いかもしれません。

 

 今回は余談のオンパレードでした。お付き合いを頂き、ありがとうございました。考えてみれば、随分といろいろなことがあったものです。

4/2/26

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