
随分長い間更新をサボっていました。申し訳ありません。
次は何を書こうか迷っていたのですが、衆議院選挙で自民党が大勝し、憲法改正に向けた議論が再び具体化することが確実になりましたので、今回はタイムリーな話題として、「そもそも憲法って何でしょう?」というお話をしようと思います。
我々法律家のほとんどは法学部の出身ですので、大抵の人間は法学部で憲法の授業を取っていますし、司法試験の受験科目には当然憲法もあります。その意味で我々にとっても憲法の基礎は、必須の知識として身につけておかなければならないのですが、同時にほとんどの法律家にとって(弁護士だけではなく、裁判官も検察官も含めて)、仕事を始めて最も縁遠い法律が憲法のはずです。特にほとんどの弁護士にとって、請求の原因として憲法違反を挙げる、いわゆる憲法訴訟といわれるものは、一生に一回か二回あればいい方です(ちなみにぼくには経験がありません。)。言い換えれば、我々法律家にとっても、憲法は大学の授業或いは司法試験を通して勉強した以上の専門知識はない法律だと思ってくださってよろしいと思います。以下はその前提でお読みください。
「第17回 虎に翼スペシャル」で、ぼくは次のように書きました。「今の政治家が盛んに繰り返す憲法改正論議の最大の問題は、この、人間の実存が先なのか、法律が先なのか、という点が全く議論されないことです。つまり、憲法9条の問題にせよ、基本的人権の制約の問題にせよ、人間の実存が変われば、すなわち日本人の常識が変われば、憲法もそれに合わせて変える必要がある、しかし常識が変わっていないのに、法律だけを先に変える必要はありませんし、変えてはいけません。戦争の放棄をめぐる日本人及び日本をめぐる国際社会の常識は憲法制定時から変わっているのか、その点をまず精緻に議論し、その上で国民の信を得なければいけないところ、憲法改正論者は、その点についての検証を何も行わず(むしろ敢えてその検証は行わず)、ひたすら法律だけを作り替えようとしている、そこが最大の問題であるとぼくは思っています。」
憲法に関する議論は、国家権力との関係を抜きにして語ることができません。このコラムは、できるだけ政治問題とは離れたいと思っていますが、憲法問題に関しては、ある程度政治的な話をせざるを得ません。そして、上記が憲法問題に関するぼくの基本的なスタンスです。これが自分と相容れないと思われる方は、不快に思われても申し訳ありませんので、どうぞこれ以上読まないでください。但し、第9条は改正すべきかどうか、などという直截な議論をここでする気はありません。あくまで憲法という法律の基本的な性格について、ぼくの考え方に基づいてお話しするにとどめます。
憲法の話をするときには、いわゆる「憲法制定権力」とは何か、という議論を避けて通ることはできません。「憲法制定権力」とは文字通り憲法を制定する権力のことです。何を言っているのだ、立法権は国家が持っているのだし、憲法も国の法律である以上、憲法を制定する権力を持っているのは国家に決まっているじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、ことはそんなに簡単ではないのです。この問題は、憲法とは何のためにあるのか、という問題と深く結びついています。
どういうことなのでしょうか。
近代憲法の起源が13世紀のイギリスの「マグナカルタ」であることに異論を唱える人はいません。そしてこのマグナカルタは、国王に対して貴族の権利を認めさせることを目的としたもので、近代国家の大原則である「法の支配」の考え方を初めて為政者に認めさせたものです。その後、市民革命による膨大な流血の成果として得られたのが、人間が生まれながらに持つ権利としての基本的人権の保護(これを天賦人権思想といいます)を中核とする近代憲法なのですが、このような歴史が端的に示すように、近代憲法とは、国家の権力の行使に制約を課すことを目的として制定される根本規範(一国の法体系の根本に位置づけられること)であるのがその本質です。そして、そうであるが故に、憲法を制定する権力を国家に持たせることは、憲法の根本的な性格と相容れません。よって憲法を制定する権力は、国家権力とは別の、国家もそれに従わなければならない権力として位置づけられる必要があります。これが「憲法制定権力」概念であり、市民革命以後の近代国家は、基本的にはこの考え方に従って、極めて慎重に憲法を制定するためのプロセスを検討し、十分な討議を重ねて憲法を制定してきたと申し上げてよいのではないかと思います。
なぜこのように回りくどく「憲法制定権力」の話をさせて頂いたかというと、そもそも憲法とは、国民の権利に制約を課すために制定されるべきものではなく、国家権力の行使に制約を課すために制定されてきた歴史があり、その名宛人は国民ではなく国家権力である、とする考え方が、近代憲法の根幹にある、ということが申し上げたかったからです。そしてこの点は、日本国憲法にも全く同様に妥当します。ぼくは、日本国憲法は近代憲法のひとつの完成形であると思っていますが、この憲法はまさに、ヨーロッパ近代国家において繰り返されてきた、人民と国家権力との間の闘争の歴史の成果です。従って、日本国憲法の総ての条文は国民の権利の保障を究極の目的とし、国家に対する国家権力行使の制約する国の根本法規として機能しています。(但し、ご存じの通り、我が国は日本国憲法制定にあたり、例えばフランスのような市民革命を経ておらず、日本国憲法は、大日本帝国憲法に定められた改正手続に従って制定されています。このことをもって、日本における憲法制定権力の存在(まさしく実存としての憲法制定権力ですね)に疑義をはさむ人たちもいますし、日本にはヨーロッパ諸国で用いられている意味での「自由」はそもそも存在しないのではないか、という疑問を持つ人たちもいます。)
日本国憲法が上記のような性格を有する以上、この憲法を改正する際にまず求められるのは、この憲法もまた「憲法制定権力」として国家権力以外の権力を想定しているという厳然たる事実を正当に認識することであると思います。更に申し上げると、国家権力の行使機関として機能している現立法府も行政府も、憲法制定権力を持っていない、従って現に国家機関として機能している機関は、いずれも憲法を改正する権力を有していないということを正面から認識することが、国家権力側にも、我々にも必要だということです。極めて抽象的且つ概念的な話ですが、この点、すなわち日本国憲法における憲法制定権力の有り様は、今後憲法改正に関わろうとする総ての人間が等しく理解し、尊重しなければならないと考えます。ちなみに、2015年当時、安倍内閣において安保法制(安全保障関連法)が制定されましたが、当時安倍総理は国会で「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか。」と答弁しています。死者に鞭打つのは本意ではありませんが、この発言は、彼がまさに日本国憲法の基本的性格について完全に無知であったことを端的に示しています。
次にお話しておかなければならないのが、憲法第96条についてです。
世の中では、戦力の不保持を謳う憲法第9条の改正の話が大きく議論されることが多いのですが、個人的には第9条の議論より、第96条の議論の方がよほど重要で、後世に対する影響力が強いと思っています。
第96条は以下のような条文です。
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
このように、この条文は、憲法改正のための手続を定めるものです。先ほどの憲法制定権力の行使としての改正手続を定めたものと言えると思います。
条文を読んで頂ければお分かりの通り、この第96条は、憲法改正のためには各議院の総議員の3分の2以上の賛成が必要であるとしていますが、これでは改正の要件が厳しすぎるとして、これを過半数の賛成で発議できるようにしようという議論が、安倍政権の時代から政府内で燻っていました。そして当時、この第96条は、単なる憲法の改正手続のための要件を定めているだけの条文であり、憲法そのものではないのであるから、通常の法律と同様、国会の過半数の賛成、しかも参議院で成立しなかった場合には、衆議院での再可決で改正できるという考え方が語られ始めていました。第96条さえ改正できれば、その後の憲法改正手続はより簡単に行えることになります。当時、さすがにそれは行き過ぎであるとしてこれに待ったをかけたのが石破氏であったと言われています。先回の衆議院議員総選挙で、自民党が単独で3分の2以上の議席を獲得しましたが、参議院ではまだ3分の2の議席は確保していません。従って、現状では、この第96条が存在する限り、自民党議員の賛成のみで憲法改正の発議を行うことはできません。しかしながら今後また、この第96条改正の議論は再燃することは確実だと思います。
議論が冒頭に戻りますが、憲法も法律である以上、改正という事態を完全に離れて存在し続けることはできませんし、上記のように憲法自体がそれを前提としています。しかし、総ての法律がそうである以上、法律が社会の実存を変えることはできませんし、そのように企図しても、結果的にその法律の通用性を著しく減退させるだけであり、それによって得られるものは全くありません。逆に社会の実態が憲法の改正を望んでいるのであれば、その実態に併せて積極的に憲法を修正していく、そのような柔軟性も同時に必要であることは確かです。
同時に現代を生きている我々は、この国の将来の生きる人たちのために、何を遺していくべきなのか、何が遺せるのかを考える責任があります。日本国憲法は我々に何を委ねているのか、それを重く受け止め、真剣に未来をデザインする責任と気概が必要であると心から思います。極めて概括的ではありますが、これからこの国の憲法をどうしたいのか、それを皆さんがお考えになる際に、少しでもお役に立てればと思い、不案内な領域ではありますが、思っていることを少し書いてみました。
ご質問、ご意見をお待ちしています。
2/16/26