前回のコラム「虎に翼スペシャル」で、法律の通用力(法律が社会で通用する力)について書かせて頂きました。その関連で、法は常識の集積、ということを申し上げましたが、それに関して、かつて長年お仕事を一緒にさせて頂いたクライアントの元役員で、その傑出した能力に対し、私が常に畏敬の念を抱いていた方から、「自分の常識にもとづいて考えると法的にもそれほど間違えてはおらず、後付けで法律の条文を見つけ、説明する際は条文にこの記載があるからこうなるみたいなことを言い続けていた」とのコメントを頂戴しました。そのコメントも、恐縮ながら我が意を得たり、という感じで大変嬉しかったのですが、その方とやり取りしている中で、裁判官がよく言う「スジとスワリ」という言葉を思い出しました。
きょうはその「スジとスワリ」について書いてみます。
我々法曹は、資格を得る前に司法修習生という身分の国家公務員となり、司法研修所で研修という名の実務トレーニングを積むのですが、司法修習生として民事裁判の研修をしていた頃、東京地裁の指導教官から、「案件のスジとスワリ」(筋と座り)という言葉をよく聞きました。曰く「案件にはスジとスワリというものがある。同様に我々の出す判決も、スジとスワリを意識しないと、当事者から納得してもらえない。」と。
これを自分なりに解釈してみると、判決は「スジとスワリ」を意識して書かないと、その名宛人である当事者に受け入れてもらえず、結果的には通用力を持ち得ない、ということかと思います。法律は社会の常識(あるいは「人間の自然な感情」と言い換えてもよいのかもしれません)に受け入れられない限り通用力を持ち得ないということを前回申し上げましたが、そのアナロジーで考えてみると、社会常識に合致しない判決は、結局その名宛人から受け入れられず、通用力を持たないものにしかなり得ない、ということではないかと思います。
このコラムを書くにあたって、文献をあれこれ当たってみたのですが、1998年に公刊された「裁判官のエキスパティーズとは何か」(松村良之、太田勝造、岡村浩一共著)という論文に、この「スジとスワリ」について現職裁判官7名にインタビューした結果が掲載されていました。非常に興味深いので、一部抜粋してご紹介します。
「スジが見えたというのは、その訴訟の背景事情を含めた人間関係、なぜこういう紛争になったのかという実態が裁判官にもわかったときである」
「訴状の請求原因の背後にある社会的な一つの紛争そのものが、双方から間接事実が出てくるとつかめてくる、そこから出てくる直感的な結論と訴状に書かれている請求原因とがうまくマッチしないという感じを持ったときにスジが悪いという言い方をする」
「社会一般が納得するだろうと裁判官が思う結論に近いとスジが良い。スジの判断の背後には、社会一般の常識が背景にあるのではないか」
「法律的には一応成り立つんだけれど、おかしいなと思うもの、社会の倫理観に反すると思うものはスジが悪い」
「手形で何人にも渡っていると、事件屋が介入していることが感じられる。これは本当にタチが悪いな、スジが悪いな、という感じがする」
「利息制限法を超えて既に支払っている部分についての例の判決(筆者註:過払金返還を命じた判決のこと)は、(法律の)文理解釈からすると無理な判決だけれども、スジを重視したものと言える。同じような例として法人格否認の法理がある」
「三段論法的推論から出てきた結論と生の事実、それから事件の周辺にある事実、そこら辺りを自分で調べたり見たりした事実の集積からくる常識的な判断と一致しないときスワリが悪い」
「背景事情、紛争の実態、その背後を探ってみると、必ずしもその結論は妥当でないときはスワリが悪い」
「スワリの良し悪しとは、要件事実だけからいえば請求を認容しなければならないと思われるものの、背景事情、紛争の実態を探ってみると、必ずしもその結論は妥当ではないとき、スワリが悪い」
「経験のある裁判官がスジを使う、裁判というものはスジの良い方向に持っていくべきだとか、スワリの良い解決をすべきだというような、経験のある裁判官の話を聞きながら、若い裁判官も徐々にそんなものかと身につけていく」
「任官したての人がスジとかいうと変な感じがする」
さて、この「スジとスワリ」、どういうものか皆様には想像はついたでしょうか。
正直のところ、ここで裁判官が語っている「スジとスワリ」は、私が思っていたものとは若干違っていました。私はこれまで、「スジ」とは結論の「筋」、つまり専ら「結論の論理性」のことであり、「スワリ」とは結論の「坐り」、つまり「結論の妥当性」のことではないかと思っていました。
しかし、この裁判官たちの話を読む限り、「スワリ」については、私の考えていたことと概ね同じ概念のものとして語られているように思うものの、「スジ」については、二つの意味で私が考えていた概念とは異なっているように思います。
一つは、この「スジ」は必ずしも裁判官の下す結論に関するものではなく、案件や当事者の性質をも指していると思われるということです。
例えば、「手形で何人にも渡っていると、事件屋が介入していることが感じられる。これは本当にタチが悪いな、スジが悪いな、という感じがする」という意見などは、明らかに案件や当事者の性質について語っています。これは要するに「スジの悪い事件」或いは「スジの悪い当事者」ということです。因みにネットで「筋悪案件」で検索してみると、霞が関では、「筋悪案件」とは「政治家のゴリ押し案件、協議期間が異常に短い案件、まともな理論が通用しない相手からの強い要請など」を指すと言われているようです。同様に裁判官にとっても、これと類似の、無駄な苦労をさせられる事件はやはり存在するのであり、裁判官は、そのような事件を「スジの悪い事件」と呼んでいることが見て取れます。他方、このスジを裁判官が出す結論についての概念として捉えている意見もあります。「社会一般が納得するだろうと裁判官が思う結論に近いとスジが良い」という意見などです。
二つ目は、この「スジ」は必ずしも「結論の論理性」についての概念としては認識されていないことです。むしろ「結論の妥当性」の問題として語られている傾向が強いように思います。例えば、「法律的には一応成り立つんだけれど、おかしいなと思うもの、社会の倫理観に反すると思うものはスジが悪い」という意見などを観ると、「法律的には一応成り立つ」という部分は論理性について語っているように思いますが、「社会の倫理観」との関係でスジを語っていますので、この文脈では、「スジ」とは「結論の妥当性」についての概念であるようにも見えます。
結果的には、この「スジ」は、結論の妥当性についての概念でも見えるという意味において、「スワリ」とあまり明確な区別ができないという印象です。
他方、「スワリ」が「結論の妥当性」に関連する概念であることは、比較的明確になっているように感じられます。「三段論法的推論から出てきた結論と生の事実、それから事件の周辺にある事実、そこら辺りを自分で調べたり見たりした事実の集積からくる常識的な判断と一致しないときスワリが悪い」という意見や、「背景事情、紛争の実態、その背後を探ってみると、必ずしもその結論は妥当でないときはスワリが悪い」という意見などは、正しく結論の妥当性そのもの、という感じです。
司法修習生時代の民事裁判修習では、実際に存在した案件を基礎に、固有名詞を変え、事案の詳細を簡略化した事件記録を渡されて、判決書(はんけつがき)を起案するという練習をさせられます。判決を書くときには、条文を基に請求や抗弁などを構成するための法律要件を抽出し、それに事実を当て嵌めた「要件事実」を組み立て、その要件事実が証拠上認められるか否かで結論を導いていくのですが、要件事実に従って構成していくと、どう考えてもある結論に到達せざるを得ないと思われる時も、実際の判決の結論が真逆、ということが時々ありました。そんな時は、裁判教官による解説、講評を聴いてもいかなる論理的根拠でそうなったか、結局わからなかったものです。よくわからないが、何故か最後の最後で全く逆の結論が導かれる、そういう印象でした。その手の案件を我々は仲間内で「ウルトラC案件」と呼んで、なぜ裁判官はウルトラCを使って判決の結論を真逆にするのかをよく議論したのですが、我々の結論は、要するに裁判官は、要件事実に従って論理的に導かれた結論が当事者間で通用力を持たない、或いはその納得性が低いと思われる時には、論理的整合性を犠牲にしても、ウルトラCを使ってスワリの良い結論の判決を書くことがあるのだ、ということでした。換言すると、判決の通用力もまた、その判決が当事者の常識に合致していることによって生じるものであり、裁判官はその点を常に意識していないと、いわゆる「良い判決」は書けない、ということなのでしょう。
その意味で、先回のコラムでご紹介した、「人間の実存があって初めて法律が作られる。」という米津さんの言葉は、「人間の実存があってこそ判決がある。」と言い換えてもよいと思います。因みに、我々弁護士は判決を書くことこそありませんが、訴訟案件を進める上では、常にどのような判決を裁判官から引き出すか、ということを意識しなければ訴訟活動はできません。そうである以上、我々もまた、「案件のスジとスワリ」は常に意識していなければいけないということだろうと思います。
本日のコラムは以上です。
いよいよ12月です。今年のコラムは、恐らく今回で最後になると思います。今年は能登の地震と羽田空港の事故という衝撃的なニュースで始まり、国の内外の政治も大きく動きました。来年はどのような年になるのか見当もつきませんが、来年も粛々と仕事をしていきたいと考えております。
皆様、良いお年をお迎えください。ごきげんよう。
11/25/24