渡邊・清水法律事務所

第17回 虎に翼スペシャル

 時代に迎合したかの如きタイトルですが、NHKの回し者ではありません。ドラマの評論をするわけでもありません。

 ぼくは殆どテレビは観ない人間ですが、NHKの朝ドラは基本的には録画して欠かさず観ます。朝ドラでも途中で観なくなるものもあるのですが(2、3作前の沖縄関連のものなど)、今回の「虎に翼」は法律関連のドラマでもあり、またぼくより少し前の先輩たちの中には、主人公のモデルになった三淵嘉子さんが横浜家裁の所長だった時代に裁判修習でお目にかかったという方々が何人かいて、比較的親近感があったこともあり、興味を持って観ていました。キャストも皆魅力的でしたが、なんといっても脚本が秀逸でした。

 さて本題です。

 先日「虎に翼スペシャル」という特番で、このドラマの主題歌を作った米津玄師さんが、主演の伊藤沙莉さんと対談していました。この対談を観ていて、米津さんのクレバーさと思惟力に非常に驚きました。特に、このドラマを観て気付いたことは何か、という質問に対する彼の言葉に、

 法律は固定化されたものではない。

 人間の実存があって初めて法律が作られる。その順番を逆にしてはならない。

 実存から離れた法律は作り変える必要がある。

 というのがありました。法律に関しては素人だと思う彼が、法律の本質を見事に捉えていて、非常に感銘を受けました。

 法律は常識の集積です。極論すれば、六法全書は、全編、それこそ常識が法律の条項として並んでいるだけのものです。勿論その中には「人を殺してはいけない」という、古今東西を問わず、社会の規範として当然に通用している常識もありますし、「競争事業者間で価格の協定をしてはならない」というような、国や時代や政権のポリシーなどによって、具体的な適用範囲や違反した場合のサンクションの有無などが変動するため、その条項の社会への浸透度が比較的弱いと言わざるを得ない常識もあります。しかし、その規範としての強弱はともかく、法律とは、我々が社会生活を送るうえで規範として当然持っているもの、或いは規範化されても納得できるものが文書化されているものであり、そうでなければ通用力を持ち得ません。逆に言えば、法律の規定の内容が、社会の構成員の大多数から納得の得られるものでなければ、法律はその名宛人から遵守されず、結果的にその通用力を失ってしまいます。その典型的なものが政治資金規正法です。国会議員にとってはこの法律は守るべきものではなく、自分たちを縛る法律がある、というポーズを作るためだけの機能しかありません。要するに全く通用力のない法律ということになります。

 そして、法律が常識の集積である以上、米津さんがいみじくも言語化した通り、それは「固定化」されたものである筈がありません。社会が変化して人々の意識や生活習慣が変われば、常識も変わります。そうなれば法律も変容せざるを得ません。繰り返しになりますが、さもなくば法律はその通用力を維持することはできなくなるからです。その意味で、「人間の実存があって初めて法律が作られる。」という米津さんの言葉は、まさしく法律の本質について正鵠を射た言葉だと思いますし、「人間の実存と法律の順番を逆にしてはならない。」との観察もまた、法律の在り方についての正論だと思います。

 ちなみに、今の政治家が盛んに繰り返す憲法改正論議の最大の問題は、この、人間の実存が先なのか、法律が先なのか、という点が全く議論されないことです。つまり、憲法9条の問題にせよ、基本的人権の制約の問題にせよ、人間の実存が変われば、すなわち日本人の常識が変われば、憲法もそれに合わせて変える必要がある、しかし常識が変わっていないのに、法律だけを先に変える必要はありませんし、変えてはいけません。戦争の放棄をめぐる日本人及び日本をめぐる国際社会の常識は憲法制定時から変わっているのか、その点をまず精緻に議論し、その上で国民の信を得なければいけないところ、憲法改正論者は、その点についての検証を何も行わず(むしろ敢えてその検証は行わず)、ひたすら法律だけを作り替えようとしている、そこが最大の問題であるとぼくは思っています。

 話が横道に逸れました。

 更にこの対談では、主演の伊藤さんが、このドラマに出演して、自分のここが変わったというところはありますか、という米津さんの問いに答えて、

 何が正義なのか、それを疑うようにしようと思うようになったことです。

 何が正義なのか、明確に答えを出す必要はない、と今は思っています。

と答えています。

 これにも痺れました。

 我田引水の感があるのはお許し頂くとして、これはまさにこのコラムの第4回‐弁護士にとって「正義」とはでご紹介した価値相対論、つまり正義の相対性の考え方そのものです。「人間の実在があって初めて法律が作られる」というテーゼに照らして観てみれば、人間の実在の上に正義が実在する以上、正義とは畢竟社会の常識によって形成される構成員の共通認識、或いは合意事項に過ぎない、よって法律が変容を迫られるように、正義もまた変容を余儀なくされる、そうである以上、正義を絶対のものとして捉えることはできず、またその必要もない、と言い換えることができると思います。正義とは、誰の視点から社会のどの表層を観るかによって異なって然るべきものだからです。その点をこのドラマの主人公を演じることによって会得する感性は、流石としか言いようがありません。

 因みに、先回のコラムでも少し書きましたが、このドラマの法廷シーンは、証人尋問(正確には被告人質問)での法廷全体の緊張感を相当正確に再現していましたが、訟務検事(国が民事訴訟の代理人となった案件で、国の代理人になる者のことです)のいけずぶりをも正確に描いていており、思わず笑ってしまいました。

 今回は、ほぼ閑話休題というテーマの、我田引水気味のコラムでした。次回は弁護士の仕事の紹介の二回目の予定です。いつまでも酷暑が続きますが、皆様くれぐれもご自愛ください。

2024/9/24

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