渡邊・清水法律事務所

第13回 胆力とは

 弁護士にとって一番求められる能力は何かと聞かれて「胆力」と答える人がいます。

 ぼくも、「胆力のある弁護士であること」が弁護士に「最も」求められる資質かどうかはわかりませんが、欠かすことのできない資質の一つであるとは思います。胆力はあるが知力のない弁護士がいるとすれば、偏見はあるかもしれませんが、ぼくは、そういう弁護士が扱いづらい弁護士のひとつの典型であると思いますし、その意味で胆力が弁護士に「最も」要求されている資質だとは思いませんが、逆に胆力のない弁護士は使い物にならないとも思います。「最も求められる資質かどうかはわからない」というのはそういう意味です。

 「胆力」とは何か。そして弁護士にはなぜ胆力が必要なのか。それが今回のテーマです。

 自分の経験を書きます。

 バブルが終焉を迎えた1990年代後半、青山通りを青山三丁目から表参道に向かって進む左手に、広大な空き地が広がっていた時期がありました(今もかなりの土地が空き地になっています)。バブル期に地上げ屋が跳梁跋扈し、広大な土地を地上げしたものの、バブルの終焉により資金繰りがつかなくなり、90年代後半から2000年代にかけて、塩漬けになってしまった土地が延々と広がっていました。弁護士になって10年目くらい、留学から帰ってきて2年後くらいでしょうか、その一区画を買い上げ、再開発することを計画した企業を代理したことがあります。その区画は、倒産した会社から譲渡を受けた複数の会社が所有しており、権利関係も錯綜していたのですが、非常に苦労して権利関係を整理し、売主となった会社の一つと売買交渉を行ったときのことです。事務所の会議室の扉を開けた瞬間に仰天しました。なんと20人以上の人達で会議室が埋まってしまっていたからです。名刺をもらってみると、売主の会社の担当者は数名しかおらず、他の人達は、ほとんどがその取引とは何の関係もない、今でいう反社会的勢力の人達でした。対する当方は私一人。彼らは私を取り巻くように会議室のテーブルに着席し、座りきれなかった人たちはその後ろに立って私を睨みつけています。会議を始めようと口を開いたその瞬間、彼らのリーダー格だと思われる人物が私に向かって、その土地は売らない、と言い始めました。どんな理屈をこねていたのか、今となっては何も覚えていませんが、要するに、この土地の売買に弁護士なんぞが出る幕はない、特にお前のような若造に偉そうに喋らせるつもりはない、お前は手を引け、ここは俺たちに任せない限り何が起きるかわからないと思え、そういう話でした。

 これはダメだ、と思いました。結局我々の依頼者から金をどれだけ毟り取れるか、それしか考えていないこんな奴らと交渉しても全く埒は明かない、こいつらを会議室から排除しないことには話は始まらない、と腹を括りました。取り巻き連中に「アンタたちと話す気はない、私の依頼者は、私を代理人として交渉権限を与えているのだから、私は会社の人間としか話さない。それが嫌だと言うのであれば、私の依頼者はこの土地を買わない、アンタ達をここに呼んだ覚えもない。今すぐ出ていけ。出て行かないのなら警察を呼ぶ。」と言いました。その途端に、会議室は彼らの怒号に包まれました(「ただじゃ済まねーぞ」から「命を大事にしろ」まで。よくある話です。笑)。

 会社担当者にとっても予想外の展開だったのかもしれませんが、何とか彼らを会議室から排除させ、このような状況では売買交渉などできない、と告げ、会社に対して二度とあんな連中は連れてくるな、と申し入れました。結果的には彼らは二度と現れず、私に対する脅迫も全くありませんでした。結局その売買は、紆余曲折の末クローズできたのですが、この時の交渉は、私にとっても、なかなか緊迫したものの一つになりました。

 今でも覚えているのは、彼らに対し、「アンタ達と話す気は全くない」と告知する前、私自身に一瞬逡巡があったことです。もちろん私にとって、そのように告知する以外に選択肢はありませんでした。彼らと交渉など始めたらそれこそ泥船です。依頼者の利益にならないことはもちろん、場合によると、自分自身の資格すら危ない。しかし、それを告げた途端の面倒な状況も容易に想像できる。安易な解決に逃げ込まずに、あえて火中の栗を拾いに行く、その覚悟はオレにあるのか、という逡巡があったことは事実なのです。

 そして私たち弁護士は、これと似たような状況、つまり、その後どれほどの面倒な状況が待っていようと、言わなければならないことを言うべきタイミングで直截に言わなければならない状況にしばしば直面します。上に書いたような状況、つまり、強迫や恐喝まがいの行動をとる人たちと相対する状況はむしろ稀ですが、いわゆる通常業務の中で、契約交渉の場でも、裁判所での裁判官や相手方代理人とのやり取りの場でも、このような状況は極めて頻繁に発生します。その際に何ら躊躇なく(仮に当時のヘタレの私のように、一瞬の逡巡があったとしても)、タイミングを逃さず、端的に必要なことを伝えることができる能力、このような能力を、私は胆力と言っています。

 正直に告白すると、私はもともと、このような意味での胆力のある人間ではありません。誰に対しても言いたいことは腹の中に収め、我慢することを強いられた幼少期を送ってきました。そんな自分は、森綜合法律事務所という事務所で徹底的に鍛えられました。森綜合では、総ての案件で、最も期の若い弁護士(弁護士になってから最も年限の浅い弁護士。それはほとんどの場合、新人弁護士です)が主任となり、ありとあらゆることを任されます。依頼者との連絡、判例・学説の調査、合議のアレンジと準備、書面の作成、法廷での裁判官とのやり取り、相手方との交渉、契約書のドラフトなど、案件で必要となるあらゆる作業を総て一人で行わなければなりません。もちろん、先輩の弁護士と議論する機会はこれでもかというほど設定されますし、合議の場でこちらの考えなどは何もかも徹底的に論破され、作成した書面のドラフトなどは原形を全くとどめなくなるほど修正され(それはそれで辛いのですが)、最終的な案件の方針もチームで徹底的に議論して決められましたので、完全に白紙の状態で法廷や交渉の場に放り出されるということはなかったのですが、どんなに準備しても裁判所から想定外の質問をされたり、交渉の場での相手方から思いもかけなかった提案が出されたりなど、自分自身の智慧だけを頼りに切り抜けなければならない修羅場は、それこそ数えられないほど経験することになりました。(また、そのようなギリギリの状況で、時折先輩弁護士が咄嗟に出してくれる助け舟の切れ味の素晴らしさには常に感嘆させられるばかりであり、ぼくも20年経ったらこういう弁護士になりたいと心から思ったものです。)

 そのような経験を積んで今の私が言えることは、「弁護士は修羅場の数だけ育つ」ということであり、逆に「修羅場を経験しないと胆力は育たない」ということです。会議室で一言も発言せず、先輩弁護士の発言をひたすらノートに取る、そのような仕事を何十年しても、決して胆力のある弁護士は育ちません。そういう意味で、私を育ててくれた森綜合という事務所と先輩弁護士に、私は今でも心から感謝しています。

 ここから先は蛇足です。

 胆力のない弁護士は使い物にならないという話をしてきましたが、実はこの「胆力」、弁護士だけに必要な能力かというと決してそんなことはありません。

 ここ20年ほど、何社かの社外役員に就任させて頂き、会社の取締役会等に出席する機会を頂戴してきました。その過程で数多くの社外役員の方々とお付き合いさせて頂いてきましたが、会社の役員、とりわけ独立の立場で客観的に行動することが求められる社外役員には、まさしく弁護士同様、胆力が求められる役職であることを痛感します。時に会社経営陣、或いは大株主の意向に反しても、どんな状況でも、誰に対しても、忌憚なくものをいう能力が求められているからです。それはまさしく、「言わなければならないことを言うべきタイミングで直截に言うことができる能力」です。

 社外役員、特に社外取締役になるような人達は、経営のプロとして自分の会社で成功した人達が就任するのが一般的なのですが、誰しもやはり人間、社外取締役として崇め奉られる人たちも、様々な局面で人の本性が出る、最近そのような経験をしました。執行側の方針が間違っていると思うときは、敢えて周りとコンフリクトを起こしても、言わなければならないことを言わなければならないタイミングで端的に指摘する、それによって自分の立場が危うくなろうが、周りから嫌われようが、言わなければならない思ったことは敢えて問題提起する、その気概は社外取締役にもやはり必要であり、その胆力のない人間は社外役員などにはなってはいけないと痛感する経験でした。自社の社長、会長としては有能だったのかもしれないが、自分の会社という立場を離れると途端に何も言えなくなるような人物は、社外役員にはなってはいけない人材だということです。日本には社外役員になるべき人材が少ないということが時に議論されますが、このような胆力のある社外役員が果たしてどれだけいるのか、非常に疑問です。

 かなり話が脱線しましたが、更に脱線させます。

 よく誤解されるのですが、この胆力、つまり「言わなければならないことを言うべきタイミングで直截に言える能力」というのは、人に生まれつき備わっている能力であって、これができない奴は一生できないと思っている人が多いのですが、それは全く違います。実は私がこれまでかかわってきた先輩弁護士の中にも、したり顔でこういうことを言う人はいました。確かに、生まれつきズケズケものを言う人(ものが言える人)はいます。逆にそれが不得手な人もいます。しかし私の経験では、遠慮会釈なくものを言う人が、「言わなければならないことを言うべきタイミングで直截に言える」人かというと、それはイコールではありません。そもそもいくらズケズケものが言えても、その内容が的外れであっては無意味です。必要なことだけを直截に、端的に言う、というのはそれ自体鍛錬の賜物であり、人に生まれつき備わっている能力ではありません。また、この胆力が要求される場面というのは、私達の日常生活では全く経験しない場面が殆どです。日常生活で遠慮会釈なくズケズケものを言うということと、それを言うことによって周りから総攻撃される、またはそこまで極端な状況ではないにせよ、自分の利益にはならないかもしれない状況下で、敢えてそういうことを言う、そのようなことができるかどうか、ということは、全く次元の異なる話なのです。

 要するに私が言いたいのは、胆力とは鍛錬の賜物として後天的に備わる能力であり、先天的な能力ではない、ということです。

 またついでに更に脱線させると、このような胆力が備わった人は、どんな組織、どんな集団にも必要不可欠です。このような人たちは往々にして上から疎まれ、組織の中では生きづらい思いをすることが多いように思いますが、このような人たちが如何に貴重かということを正当に認識し、自分が矢面に立っても、そのような人たちを冷遇せずに守り続けることが、上に立つ人間の資質の一つだと思っています。

 社外役員の話は別の機会にまた書いてみようと思います。いずれにしても、今回このコラムを書いていて、弁護士という人種が世間的にはいかに付き合いづらい人種かということを再確認しました。

 因みに、入院手術などがあったので、更新が滞りました。体調も戻りましたので、また更新していきたいと思っております。

2024/03/22

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