渡邊・清水法律事務所

第11回 フェアであること

 ぼくは1992年から1995年までアメリカにいました。何を考えてアメリカに行ったか、アメリカで何をしたか等々については、以前こちらで書きましたので、今回は繰り返しませんが、アメリカで勉強し、働いてみて、アメリカという国での法曹の役割について最も痛切に感じたのが、「Fairnessを守ること」、或いは「Fairnessが誰にも広く行き渡るように努力すること」でした。突き詰めて言うと、アメリカでは法曹には常に「フェアであること」が求められているといってもよいと思います。

 11回目の今回は、この「フェアであること」がテーマです。

 ぼくは、弁護士になって5年目の1992年の夏に留学のためにアメリカに渡り、ロースクールで1年勉強した後、シカゴの法律事務所で2年間働かせてもらいました。アメリカでの法曹経験は、様々な意味でぼくの法曹に対する考え方を大きく転換させるものとなりましたが、とりわけ、法曹は如何にあるべきか、或いは法曹が職務を通じて達成させるべき目的は何か、という点について、それまでぼくが漠然と思っていたことが大きく転換されられることになりました。

 以前のコラムでも触れましたが、日本には弁護士法という法律があり、その第1条に、「弁護士の使命」というタイトルで、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」と規定されています。ぼくは、留学するまで、この規定の意味が全く分かりませんでした。正確に言うと、「基本的人権の擁護」ということはわかります。日本国憲法で保障された国民の人権の擁護、これが我々弁護士の使命の一つです。ところが、もう一つの「社会正義の実現」、その意味が分からない。「社会正義」とは何なのか、シンプルな「正義」とは違うのか、その正確に意味するところが全く腑に落ちなかったのです。そして、以前のコラムをお読みいただければ感じて頂けると思いますが、実は今でもよく分かりません。そもそも素の「正義」とは何かという命題について明確な定義もないまま、「社会正義を実現しろ」と言われても、実現すべき「社会正義」が何か、今でも分からないのです。

 「社会正義の実現」の意味については、そのような状態で留学したぼくでしたが、アメリカで法曹が目指す社会の具体的な姿が見えたような気がしました。当時ぼくは、アメリカの反トラスト法(日本でいう独禁法ですが、因みに、正確に言うとアメリカにも「Anti-Trust Act」という法律はありません。これ以上は専門的になりすぎるので割愛します。)違反事件に没頭しており、この法律に違反して競合会社とカルテルを結んだ容疑で捜査を受けていた日本企業の代理をしていました。その企業は結果的に司法省と司法取引して罪を認め、日本円で数百億円の罰金刑を科せられ、更には民事訴訟で巨額の損害賠償金を支払うことになりました。この事件を通じてぼくが痛感したことは、「お前たちはフェアではない」と烙印を押されることの怖さでした。

 反トラスト法の規定により、競合会社との価格協定等のカルテル行為は違法行為とされます。ですから、捜査の手が入れば、会社も首謀者の役職員も厳しい罪に問われます。数百億円の罰金を支払わざるを得ないのはもちろん、会社内でカルテルを首謀、または実行した役職員が2年、3年の禁固刑を科されることも決して稀ではありません。アメリカの反トラスト法について何も知らなかった当時のぼくは、このきわめて激烈な法執行の実態に驚愕しました。この事件は、アメリカの反トラスト法により日本企業が摘発され始めた初期の事件でしたので、日本では全く実例のない結果の重大さも勿論のこと、アメリカでの一種狂気とも思われる法執行の激烈さが何に由来しているのか、当時のぼくには全く理解できませんでした。しかし、このような反トラスト法違反事件での企業の代理人を何件も務めていくうちに、徐々にその根源的な理由がわかってくるようになりました。

 それはまさしく「アンフェアな奴は絶対に許さない」という強固な信念なのです。アメリカはご存じのとおり、典型的な資本主義経済社会です。ですから、フェアに競争し、フェアに金を稼ぐことは誰にも止められない。その先にあるのがアメリカンドリームです。しかし、その競争の仕方がアンフェアだとされた場合、そのサンクションは途方もなく大きい。Fairnessが支配するのは競争だけではありません。金融取引であろうが、企業情報の開示内容であろうが、契約交渉であろうが、訴訟手続であろうが、また、その主体が法人であろうが個人であろうが、フェアに行われているうちは、社会のリアクションは驚くほど寛容ですが、いったんアンフェアだと判断されてしまうと、まさしく手のひらを返したようにそれまでの行為のすべてが否定される、それは恐ろしいほどです。

 余談になりますが、個人的には、アメリカという国は壮大な建前で成り立っている国だと思っています。ただ、その「建前」が我々の思い描く「建前」とは違います。

 我々日本人が慣れ親しんでいる「建前」とは、「本音」の対立概念としての「建前」であって、対人関係又は社会との関係を円滑にする目的で、他人に対して本音を隠して建前だけを語る、という文脈での「建前」だと思うのですが、アメリカ人にとっての「建前」は「本音」との対立概念としての建前ではなく、あくまで彼らの本音そのものです。ただ、その本音があまりにシンプルというか単純すぎるので、我々日本人からすると、実は裏があるのではないかと勘繰ってしまうということが起きるのですが、実は裏も何もなく、シンプルにそれが本音、ということです。(勿論、アメリカ人の全員がそうだと言っているわけではありません。社会のマジョリティ、或いは社会の共通認識としてそのような傾向がある、というだけの話です。)ただ、そのような本音を持つこと、それ自体が壮大な建前ではないか、そういうことです。

 例えば、誰もが共通に感じることだと思いますが、アメリカ人は建前で「America is No. 1」と言っているわけではありません。彼らは心底そう信じている、そういう意味ではそれは本音なのです。だが、本音としてそう信じること、それ自体が建前である、ぼくの言いたいことはそういうことです。

 余談でした。ただこの点は、アメリカという国をよりよく理解するためには重要なポイントではないかとぼくは思っており、本コラムのポイントである、アメリカという国にとっての法曹の存在意義にも関連するところでもあります。

 本題に戻りましょう。アメリカでの訴訟を何件も処理してきた、その経験からぼくは、アメリカという国でもっとも忌み嫌われるのが、それはフェアではないと判断されてしまうことだ、と思うようになりました。それは彼らの壮大な建前なのかもしれませんが、まさしくその建前を維持することがアメリカをアメリカ足らしめているという意味で、彼らの本音そのものです。ですので(これも余談ですが)、その是非を外国人が争うことは単なる神学論争を始めるという意味しかなく、全くの無意味です。批判するのは簡単だが、意味がないということです。

 で、ここからが結論なのですが、そこまで思い知った時、ぼくには「社会的正義」の意味が見えたような気がしたのです。日本社会で「Fairness」が声高に叫ばれることはありません。日本語では「公正さ」などと訳されると思うのですが、そもそもこの訳が如何にも英語の直訳であることからも、そもそも日本社会には伝統的に「フェアであれ」という概念はなかったように思います。なぜなら、フェアであることは当然周囲とのコンフリクトも惹起する。フェアであろうとした途端に、万事丸くは収まらなくなるのです。ぼくは「誰が見ていなくとも、お天道様が見ておいでだ。お天道様の下で悪いことはできねーよ。」という、日本古来の考え方がとても好きですが、これなどは「Fairness」にも共通する考え方なのかもしれません。ただ、やはり誰に対してもフェアであれ、という直截な考え方は日本には伝統的にはなかったような気がします。そして法曹の在り様として、フェアな社会の実現が使命である、という目標を掲げている人もあまりいないような気がしています。

 ただぼくは、アメリカでの弁護士としての職務経験を通じ、弁護士が使命とする「社会正義の実現」とは、端的に言えば、フェアな社会を実現することではないか、と今は思っています。非力な自分ができることは非常に小さいですし、残りの人生も限られてはいますが、フェアに生きようとしている人や会社の利益を守ることにこれからも全力を注ぎたいと思っています。

2023/9/27

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